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もてなし

 お久しぶりです。世間はひなまつりだったようですね。もう終わりましたけど。

 そんなわけで小説を載せようと思います。て言っても前に同人誌で書いたものの再掲です。多分二年前くらいのなんじゃないかな。

 ひなまつり関係ないでーす。美味しく食べてね。

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 この街に住んでから、もう何年も経った。初めは慣れない生活だったが、今となっては街の暮らしにも、新しい仕事にもすっかり慣れてきている。 そして、私がこの街にこうして立派な家を持って暮らせているのには、私よりも一回りほど歳上であった、とある男のことがある。その人物のことを今から、ここだけの話としてお話ししようと思う。

 その日、私はとある事情で見知らぬ土地に足を踏み入れた。確か、仕事の関係で一年ほどの期間で住まうという条件付きでこちらに越してきた。話では、少し山奥にあるが人が多く住む工業の盛んな地域だとは聞いていた。しかしながら辿り着いたそこは、人が集まる工業都市とは似ても似つかぬ見た目をしていたのである。  果たして煙か霧か、どこもかしこも『もや』にまみれた街であった。一体ここに何があるのかも、そもそも誰に会えばいいのかもよく知らされていない。見渡す限り、ただただ山々の如く寂れた細長い建造物たちひとつひとつが、人間を近づけまいとする威圧感を放っていた。街の中へと入っていくにつれて、新しい環境に戸惑い怯える心境を具現化したかのように、私の歩幅は小さくなっていった。

 街は、広かった。夏ではないが天気が少し蒸し暑いせいで喉も乾き腹も減っていた。人はおらず、入れそうな施設もなく、道が大きな木で塞がっていたために、車は途中で置いてきてしまっていた。携帯電話をかろうじて持っていたが、充電は残りわずかで、メールや電話の機能はいくらアンテナを伸ばそうと誰にも繋がらなかった。  街の中にある、屋台の多い通りに迷い込んだ時、初めて会った人間がいた。それが例の男である。その出会いは実に奇妙なものであった。その屋台通りにある建物はここの大半を占めるものとは違い、壁も屋根もトタンと細い鉄筋で出来た、どこか懐かしさを持ったボロ屋であった。その前にいくつか置かれた穴だらけの屋台のひとつ、埃を被った布が舌打ちをするように揺れる下で、それはボロの布を纏って寝転がっていた。その様は死んでいるどころか、巨大な芋虫の屍体が横たわっているように見えた。少し近づいて、布と地面の隙間から汚れた革靴が見え、布に包まっているのは生きた人間なのだということに気がついた。こんなにも不気味な街で、堂々と寝息を立てている人間がいる。なんだ、やはりこの街は寂れて人間もまともに暮らせない。来るべきところはここではなかったと、後悔ばかりを浮かべていく。  しかしもし、目の前にいる人物も、私と同じように腹が減って喉も渇いて今にも死にそうなのだとしたなら。そう考えを巡らせているうちに、無意識的に声を掛けてしまっていた。

「大丈夫ですか」

 私が発した声に反応してか、布の芋虫はゆっくり身体を起こした。生きているという安心感がわずかに緊張を和らげた。布が全体に被さってしまい細かい部分まではよく見えないが、こちらを向いたようであった。 「お前は、なんだ」  犬が威嚇するような低い声であった。そこで私は初めて、布を被るこの人物が老いた男であることを知った。私に気づいた男は立ち上がり乱暴に私の両肩を掴んだので、こちらは身動きが取れなくなってしまった。  男を覆い尽くす布が隠しきれぬ場所から、顎髭は長く伸び、その手は皺だらけであることが分かった。正に家無しの老人の様である。しかし不潔な見た目でありながらも嗅覚に訴えるものがないことに、逆に違和感を感じた。

「お前はなんだと訊いている。越してきたのか」

 もう一度男は訊いた。私は露骨に狼狽え動揺してしまい、慌てながらもひとつ間を置いてこう答えた。

「実は仕事を、こちらで。ここで新しい生活を送らなくてはならないのですが、違う場所に迷い込んでしまったようで」 「身寄りは」 「ありません。ここで新しい家を探すところですよ」

 とはいえ、目的の場所は多分この場ではないのだが。人を見た目で判断するのは良くないだろうが、この様子だとそろそろ金でもせびられるだろうと少し身構えた。 男は質問を続けた。

「家族は今どうしているのかね」 「離れてからというもの、随分経ってしまいました。分かりません」 「雨具は持っているのか?」 「一応。念の為といいますか」

 男は問答を次々繰り返した。中には物書き机とカラスのような珍妙な質問もあった。それに答えられずにいると、次の質問に移る。考える頭も疲れてきた頃、男は上を向き、空を見上げた。その時初めて男の顔の全貌が明らかになった。顎髭を伸ばし老いた顔のものとは思えなかった。それこそ人形の、精巧に作られた硝子玉のような、そんな瞳をしている。その目線は、遠く遠く並び立つ建造物たちに向けられていた。

「私の家に来なさい」

 男は一言だけ、そう言った。

 私と男は暫く歩いた。気が遠くなる程歩いた。男は時折止まって街を眺める私に合わせて歩みを止めることもあった。見上げる先は、いつも奇妙な建物ばかりがある。よく見ると洋風の装飾がある豪華な見た目を持ったものも、ただの石の塊を四角く切り分けたような単純な見た目を持つものもあった。古城を思わせる屋根が見えることもあり、それらは総じて細長く、高く聳えていた。丁度曇り空で、霧や煙がたびたび景色の一部を覆ってしまうのもあって、ただでさえ古い街並みが余計古風な雰囲気を醸し出している。見上げながら、草木の生える地面に降り立ったバッタは、いつもこんな風景を見ているのだろうかと考えていた。霧が多いのは立地のせいで、煙はもっと奥にある工場の煙突から噴き出すものだ。男は付け加えた。どうやら人が少なくなれど工業が盛んなのは確かであったようで、私はますますこの街(と、この出張命令)が怪しく思えてきた。  長い道を歩き、時々立ち止まる。それを繰り返していくうち、私はますます増していく喉の渇きと空腹に苦しめられていった。

 夜店の屋台の抜け殻にも命が灯り始めるだろう頃、私達はやっと、大きな鉄筋で出来た一つの門の前に辿り着いた。この先にあるのが私の家だと男は言う。そう語るみずぼらしく貧乏な見た目は、その発言を彼の妄想のように思わせたのだが、全く違った。  彼はどこかからおもむろに鍵を取り出すと、門の鍵穴に入れて回した。ガチリという音と共に鉄の門が開いた。

 西洋にある屋敷は門から屋敷本体の玄関までの道が遠い、などという事を聞いたことがある人は多いかと思う。私がその時歩いていたのは正に話に聞いた道であった。街の大通りより長い道を延々と歩いた所にあった建造物を見上げた。屋根の下の部分に龍を模った家紋のプレートが見える。目の前にあるのは、聳え立つわけでもなく街の中のどの建物より荘厳な雰囲気を放つ、城だ。

「驚いているかね」

 男は言った。私は頷く以外に何も出来なかった。

「狭くはないだろう。ゆっくりしていくといい」

 屋敷に入るよう促され、私はいよいよ、その中に足を踏み入れることになった。玄関である重い木の扉を閉じると、下に敷かれた赤い絨毯が目を引く。頭上では照明の光がガラスの飾りに反射して全体を明るく照らしている。  男はその場でぼろの布を脱いだ。その下には、黒いスーツをぴしりと着こなす身体があった。砂埃を払う動作で、スーツの周りの汚れを落とし、身なりを整えていく。いつの間にかあの顔も、自信に満ち溢れた老紳士の顔になっていく。

「靴のままで良いから、上がりなさい」

 どうしたら良いのか分からなくなってそのまま立っているとそう言われてしまった。そのうち、桃色一色の着物に白いエプロンを付けた、黒髪を後ろで一つにまとめた女中がどこからともなく現れた。右手で支えた丸いトレイの上には何かが置かれている。男は左手で待て、のようなジェスチャーを女中に送り、それを取った。トレイから手に取ったのはガラス製のコップだった。それから女中に再び合図をすると、女中は一礼し半歩後ろに下がった。  中に入っているのは氷入りの水で、彼はそれを私に差し出した。受け取ったそれを、私は考えることもせず吸い込むように身体に入れてしまう。気付いた時には水はなくなり、がらりと音を立てて氷がコップの底へ落ちる。その音ではっとし、初対面の人間の前でこんなところを見せてしまった自分が恥ずかしくなって、下を向いてしまった。老紳士は大きく声をあげ笑った。顔を上げてみると、老紳士も女中も、微笑を浮かべている。

「いいんだいいんだ。旅は疲れるものだ、水くらい思うように飲めばいいさ」

 そう口にする老紳士は、先ほどよりもとても優しく見えた。自分の心の中の重い何かがひとつ抜け落ちた気がした。  しかし人間、少し落ち着いてくると、周りの事に徐々に目を向けられるようになる。無論私もその内の一人であった。街自体も不気味なのに、これまた奇妙なところに入り込んでしまった、遅くはならないうちに引き返そうかと考えた。同時に、こんな家を持つ人物なのだからこの辺りの地主か何かなのかもしれない、なら何故あんな所で寝転がっていたのだろうなどとも考えていた。見知らぬ人間を自分のテリトリーにこうも簡単に入れてしまって大丈夫なのだろうか。  どこからともなく、鐘が鳴った。鐘に気づいた女中が何やら老人へ耳打ちをする。それを聞いた老人は私へこう言った。

「時間が遅くなってしまったが、そろそろ夕食の時間でね。ついでとは何だが君をもてなそうじゃあないか」

 老紳士が私の手を引きながら、玄関口を抜けとある間へ向かう。そこには細く長いダイニングテーブルがあった。ざっと見ても十人は座れそうな、貴族の持つようなテーブルだ。艶のある白い布がかけられたその上に、飾り物をするようにフォークやナイフや皿がたった二人分、丁寧に置かれていた。

「改めてようこそ、我が屋敷へ」

 老紳士は目を輝かせ、にやけ顔で私に話し始めた。

「見たまえ。これが私の屋敷の食卓だ。ここで食べられる料理は全て、この屋敷の専属の料理人の手製。もちろん腕は一級品だ。飲み物も一応、水とワインの用意は常に切らさずある。君は赤と白……ワインの話さ、どちらが良い?それに限らず、こちらで何でも用意しよう。何か頼みたいものがあれば、この召使の女に言ってくれ。——あぁ、君にもちゃんと紹介しよう。今ここに越してきたそうなんだが、街の右も左も分からないそうでね。今日からはこのお方は、私の客人だ。私同様、身の回りの世話を頼んだよ」

 ついさっき水を運んできた女中を自らの左隣に呼び右肩に手を置く。女中はその行為に対し僅かながらに微笑みを見せ、

「はい、旦那様」

 そう答えた。先程の雰囲気とはうって変わって明るく意気揚々と話し始める彼に、女中は控えめな声でこう言った。

「この方の、お客様のお部屋はどうなさいますか」 「客室の手前から三番目の部屋を用意してくれたまえ」 「待ってください。私はここで泊まるわけには」 「何か不都合でも?」

 確かに、と私は思った。しかしながらこの男が、もしこの退廃した街の屋敷を乗っ取った上で大金持ちのふりをしていたとしたら、私は騙され金目のものを奪い取られてしまうのではないだろうか。

「君はまだ、住むところすら決まっていないのだろう?どこで寝食をするというんだ。新しい家ならばここで暮らしをしながら探しても遅くはない。悪いことは言わないから、泊まっていくといい」

 老紳士は心配そうな顔でこちらを見た。やはり、最もである。  その表情に、私は頷いてしまった。

 流されるように席に着くと、やがて女中が皿を一つ目の前に置いた。薄いクラッカー、一口大の小さなソーセージ、薄切りにされた鴨肉のローストが、敷かれたレタスの上に並んでいるオードブルである。老紳士の前にも同じオードブルが置かれる。夕食が始まった。 彼の言う通り、どれも美味であった。特に鴨肉のローストが、今まで食べたそれが同じ鴨の肉とは思えぬほどに美味かったのを覚えている。口に含むと、ほのかに果物のような香りが広がり、とても柔らかな肉だった。  他の料理はといえば、山奥の地域であるせいか魚料理は出なかったが、代わりに野菜や、果物を使った料理が数多く出てきた。

 そして、肉料理が珍妙だった。  円柱を半分に切ったような、半円状の断面をした奇妙な肉である。それを女中が、台車に乗せてテーブルの中心まで運び、これまた大きなナイフで、目の前で切り分ける。細く折れそうな女中の腕が大胆に肉を切り分けていく様はちょっとした見世物のようで、老紳士も楽しそうに眺めている。  六等分に切ったもののうちの一切れが乗った皿が目の前に置かれた。それでも、自分の手の平をはみ出すほどの大きさはあるような肉だ。同じ皿に赤黒いソースの入ったココットが置かれる。料理自体は特に珍しいものではありません。一般的に言うステーキです。料理を出す際に女中は言った。食べる直前、心配なので老紳士にも訊くと、

「なかなか流通しない肉なのだよ。皆始めは驚くんだが、なかなか美味だ。食べてみたまえ」

 と言われた。  見た目からして皮のない鶏肉のようである。私はココットの中のソースをかけて、おそるおそる肉の端の方を切り取ってみる。表面はしっかり焼かれているが、断面は赤い。牛肉のようにも思えた。また、切ったところからは黄色がかったクリーム状の油がとろりと溶け出してきて、ソースと一緒に赤い肉に纏わりついている。

 そのまま、食べた。

 肉は思った以上に柔らかかった。見た目に反して、初めに感じた味はほとんど牛肉である。が、柔らかさの割には妙に口に残り、引っかかり、飲み込みづらい。それに羊肉のような癖があった。油は何故か甘ったるく感じたのだが、ソースのおかげで引き締められている。このソースも味わったことのない風味で、妙に塩っぽくもあれば酸っぱくもあった。一度肉を飲んだ。また口に運んでみた。今度はソースをかけずにである。柔らかい、甘ったるい。さっきにも増して益々飲み込めない。噛み続けていると、段々苦味も出てきているような——。

「美味いか?」

 ツネサダは少し前かがみになった。私は慌てて肉を飲み頷いた。少し咳込みそうにもなった。  その後二人で黙々と肉を食べ続け、終わるとツネサダは昔を思いだすように目を細めた。

「私は、工業でここまで上り詰めたんだが、食というのはやはり人の支えになるな。なんだかんだ言って、私はこの土地に住んで数年しか経っていない。新しい土地に住むその不安は私にも良く分かるものだ。何かあれば遠慮なく私に相談すると良い。それと、名乗り出るのが遅くなってしまったな。私の名はツネサダという。よろしく頼む」

 その時私は彼の名前を、そしてこの街の人間の名前を初めて聞いた。  ツネサダはナプキンで口を拭いた。その顔はどこか誇らしげだった。

 肉料理が終わり、デザートのラズベリーシャーベットを食べ終わると、ツネサダに連れられ屋敷の奥の間に案内された。彼の趣味の部屋だというそこには、アラベスク模様の黄金の額縁に囲われた人物画がいくつも置かれていた。絵の下に貼られた額縁と同じ色をした金のプレートには、絵描き達の名前が彫られており、中にはツネサダ自身の名前もあった。各地の絵画を集めると同時に、自らが筆を取り絵を描く事もあるという。絵画は殆どが油絵の具によって描かれた人物画で、アジア系の顔をした人間ばかりが多く描かれていた。美しい美女からどこにでもいそうな農民(見た目からしてそうであろう)のうちの一人を描いたものまで、様々だった。そのような絵が、廊下のような細長い部屋の側面に均等に並べられている。  趣味の間の一番奥には赤く大きな木の扉があったが、二本のポールと太い綱で作られた簡易的な仕切りと鍵で通れないようになっていた。自分の部屋だとツネサダは言った。 その後はツネサダと別れ、女中によって客室に案内された。食事をした間の上、二階が客室のある階なのだという。ツネサダは客室のあるフロアとは別のところで眠っているらしい。客間は屋敷の見た目と同じく洋風である。部屋中に安らぎを感じる香りが漂っていたので、事前にアロマでも焚かれているのだろうか、と思った。  部屋にあるバスルームを使って汗を流し、女中によって用意された服を着、その日は不安を忘れて満たされた気持ちで眠った。

 朝になり目が覚め、ベッドの上でしばらく頭の中を整理していると、女中が私を起こしに来た。朝食が出来たというので下に降りるとツネサダはいなかった。女中の話では仕事に出かけているのだという。  その日の朝食はフランスパン、サラダに薄切りのサラミ数枚だった。  昨夜のものとは比べ物にならないほど質素な内容であった。

 女中曰く『旦那様はまだお戻りになりません』とのことなので、少しばかり屋敷を見て回った。部屋にはほぼ鍵がかかっておらず、広い屋敷の中を不自由なく探索することが出来、運良く料理人もいないせいか料理場まで見られた。何をするか分からない赤の他人が自分の家にいるというのに無防備だと思う。  自分が居ない客室のツネサダの趣味の絵画が飾られている間で絵を眺めて過ごした。 絵に描かれた人物は、どれもしっかりとこちらを見つめ、唇は固く、口角が上がらぬように結ばれている。力強いタッチで描かれたそれを見て、ふと横に目を逸らした。この部屋の一番奥に目がいく。  ツネサダの仕事場であるという奥の部屋。確か彼は、この地に工業と精肉業を持ち込んだことでこの街を発展させたという。しかし廃れたこの街で、今は一体どんな仕事をしているのだろうか。それがどうしても気になってしまう。  誰もいないことを確認して、扉に手をかけた。

「あの」

 後ろにいる誰かが肩を叩いた。心臓が爆発しそうになった。  声をかけてきたのは女中であった。怒気を孕んだ声ではなく、寧ろどこか心配するような様子で、私を止めようとする。慌てて扉の方から身体を離した。女中はそんな私を見て申し訳なさそうな様子で答えた。

「私もこの中のことはよく知らないのです。しかし入ることはやめた方が良いかと思われます」

 慌てたような口調だった。そして直後、その話し声とは別の聞き覚えのある声が響いた。

「帰ったが。迎えがないと思ったらこんなところにいたのかね」

 ツネサダだった。昨日と同じように黒いスーツを身にまとっている。背筋を伸ばし、こちらへ近づいた。女中は身を引き、私から離れ壁際へ寄った。

「やはりその奥が、気になるかね。申し訳ないが今は見せることができないのだよ。本当にすまないね、いつかは見せてあげられるだろうから」

 ツネサダがそう言っている間も、心臓の鼓動は鳴り止まず、それを隠すのに必死だった。そのままツネサダは画廊から去っていった。

 その後、ツネサダはまた仕事に行ったらしい。女中によればいつも外で仕事をしているという。私は客室に戻り、おとなしくそこにあった本を読みふけることで時間を潰した。本は昔に書かれた小説ばかりで、多少美術書があるくらいだった。女中が運んできた、クロワッサンにハムが挟まれた質素な昼食を食べ、また本を読み続けた。  やがて鐘が鳴った。音の響き方からどうやらこの屋敷のものではなく、この地域のもっと奥深くに鐘を鳴らす塔があるらしい。夕食は、昨日と同じように豪華だった。コース料理のように順々に運ばれる様を見ていると、朝と昼の食事がある意味で夢のように感じた。  私は、またあの肉と同じものを、同じようなタイミングで食べた。ただしこの日のものは昨日のものとは部位が違うようで、細く細切れになっているものだ。少し硬かったが味はおおよそ変わらなかった。むしろ前よりも美味しいと感じ、食べる手は進んだ。それに夜になれば女中がアロマで客室に良い香りを満たしてくれるので、夜だけは落ち着いた気持ちで居られるのだ。夜だけは。

 そんな生活は二日も三日も続いた。携帯の電池は二日目で切れてしまったようで、ほとんど何も出来なくなった。庭に出ることくらいは許されていたが、街へ出ようとすると女中に止められてしまう。霧が濃いから迷ってしまうなんて理由で咎められても、その時の私は喜んで、その霧へ迷って消えてしまいたい心境であった。もっと問い詰めれば、旦那様からのお願いは絶対ですとだけ、返ってきた。わかってはいたが、私は落胆した。  殆ど軟禁だった。鐘の鳴った後の食事時、それも肉が出る時だけが唯一満たされる瞬間だった。朝と昼の食事、ディナーのオードブルとは対照的に、日に日に豪華になっていくあの肉を使った料理を食べている時にはなぜか満たされていた。未だ何の肉かは教えてもらえない。 食事を食べ続ける私の様子を、ツネサダはいつも変わらずにこやかに眺めているのだった。私はあの肉に妙な魅力を感じていた。鴨肉すらなくなったオードブルとは比べものにならない。作法すら忘れて皿にまでかぶりつきそうなあの見た目に、味に、どうも忘れられない何かと背徳感を覚えていた。

 ある日の夜中、何かが落ちるような大きな物音がしたので起き出し、屋敷の表の庭まで様子を見に出た。屋敷裏の方から煙が上がっているのが見えた。異常なほどの焦げ臭さを感じる。火事なのではないかと思った。しかも行ったことのない場所からだ。屋敷の中に入るとツネサダが丁度表まで慌てて出てきて、鉢合わせた。

「あぁ、すまない。心配をかけたね。さっき外に出かけるのを見たから、慌てて追いかけてきたんだよ。もう大丈夫だ。裏の方で少し機械が故障して、ボヤになってるだけだから。戻って休めばいい。早く戻りなさい」

 屋敷の中に入ることを急かすツネサダに、苛立って遂に聞いてしまった。

「なぜ屋敷の裏は見せてもらえないのですか。それになんで、私をこの屋敷から出さないんですか? もう何日も街にも出してもらえない。人もわずかにしか居ないこんな不気味なところで」

 ツネサダは目線を下にやり、肩を落とした。その通りのことを言われて落ち込んでいるという様子である。

「そうだね。この街はもう廃れている。だから何が起きるか分からない。悲しいことだがね。いいから、戻るといい」

 私はそれを聞いて何も言えなかった。悲しかったからではなく、さらに疑念が募ったからである。

 そのまま眠りにつき、起きてから簡単な朝食(正確に言うならばパンとバターというとてつもなく質素なもの)を食べ、昨夜の火事はどうなったのだろうかと考えながら半日を過ごした。夕暮れの鐘が鳴る前、ツネサダが居ないことを確認して、掃除をしていた女中をつかまえて自分の客室の前に連れ込んで、ツネサダについての話を聞いた。女中は私の質問に困惑の色を見せながらもまず耳を傾けて、答えやすいものからで良いですかと前置きをした後、徐々に話し始めた。

「ええ。確かにあの方は、元々資産家であったと聞いております。絵も、元々は自らお書きになるのではなくただただ人物画という人物画を、世界中からひたすらお集めになる方だったそうです」

女中はまずツネサダ本人についてこう話したが、こうも付け加えた。

「旦那様自身の経歴や仕事の詳細については私もよく分からないので、お話しできることは少ないのです。しかし、旦那様が……かつてとはいえ、この街を引っ張り、豊かにしたのは事実です。私は元々この地に暮らしていた人間です。この地がかつてどのようなところだったか、旦那様がこの街で何を行ったかは、お話しすることができます」

もう少し落ち着いて話しましょうと、女中と歩いて屋敷を歩きながら話すことにした。屋敷の玄関を出て庭で立ち止まり、女中は周りに聳え立つ建物を見上げた。その様子にどこか既視感を感じる。

「この地は元々農業が盛んで、工業や娯楽というものがほとんどございませんでした。自給自足が当たり前の暮らしが行われていたのです。そんな中、旦那様はこちらに新たな文化を持ち込みました」

「——旦那様は、それまで『最低限の生活さえできれば良い』と考えていた人々を、新たな仕事を与え生活の水準を向上させると同時に、娯楽によって贅沢をさせることで変えていきました。新たな仕事というのが、この地にあのような建物を建てるきっかけとなりました、工業です。お客様もご存知のように」

 女中は建物の一つを指さした。石がひたすら積まれているかのような、なんとも言い難い塔だ。

「あの奇妙な建物は、人々がどれだけ工業で働いて稼いだか、裕福であるかを表すためのものでもあるのですよ。人が集い増えていったことで、植物のようにどんどん増えるので少し面白かったですね」

 女中は少し笑った。にょきにょきと建物が生えてくる様を想像して私も笑ってしまった。そんな私を見て女中は少し安心したように息をついた。

 屋敷の中へ再び入った私達は、趣味の間に辿りついた。女中はある絵の前で立ち止まった。絵の中にいるのは薄汚れた頭巾を被る農民の女である。作者はツネサダと書かれていた。女中は眉間にしわを寄せ、考えるかのように口元に右手を持ってきた。

「この話はするべきではないかもしれませんが、話したほうが良いでしょうね」 再び絵の方を見る。真剣な眼差しでこちらを見る女性の絵画と、目を合わせているかのようだった。

「この絵の女性、私の母なんです」 「えっ」 「旦那様が来ても、街に住んでしばらく農業を続けていたんです。でもある日突然いなくなって」

 絵を見つめながら彼女は話していく。独り言のように、しかし声はしっかりとこちらに語りかけていた。

「少し話は変わりますが……人間には三つの大きな欲求があります。睡眠欲、性欲、そして食欲。この三つのうちどれかが満たされていれば、人間はおとなしく満足に暮らすことが出来るというのが、旦那様の考えだったようです。旦那様は、農業主体で質素な生活を営み続けるこの街を豊かにすると同時に、この、人間の欲求を満たすための街を作ろうとしていたようです。そのためか、まず水商売やギャンブルなど、世間ではあまりよくは思われないものを敢えて野放しにすることを決めておりました。 しかしながらその計画にも限界が訪れ、人々は娯楽にも飽きました。街から人は去り、風俗嬢などはその時職をほとんど失っていったようです。私も実はそのうちの一人でした」

 女中は自分の顔を指さしてから、申し訳なさそうに肩を縮こまらせ下を向いてしまった。何かを思い出すように湯っくりと顔を上げていき、その顔に怯えを浮かべた。相変わらず、居なくなった母の絵を見つめているが、絵を見る表情は救いを求めるものに変わっていた。だんだんと、話すスピードも速くなっていく。

「私がここで旦那様に雇われる少し前から、人々がどんどん居なくなっていったんです。風俗嬢をやっていた子や、工場をやっていた方も、私の母も。さっきこの周りの建物を見ましたが、その辺りからどんどん高くもなっているんです。まるで地上にいる何かから必死で逃げてるみたいに。料理人の方も、いつもはいらっしゃるはずなのに少し前からいなくなってしまって、調理はどうやら旦那様自ら行っているみたいなんです」

 怯えは声にまで現れ、震えを隠せなくなっていく。しかし彼女は私へ目線を送り、なおも喋り続けた。

「それにここに飾られている絵、どれも見たことあるような人ばかりなんです。それも、突然街から消えた人の……私の予想でしかないですが——」

「何を話しておるんだね」

 いつかの時のように、入り口辺りから低い声が響いた。声の主はこちらに真っ直ぐ近付いてきた。私は逃げることも出来ずそのまま立っていた。女中は慌てた様子を隠しきれず、逃げるでも無く近づくでも無くに動き回っていた。ツネサダが私の目の前で立ち止まると、女中はなんとか弁解しようとしたのかツネサダの前へ立った。

「旦那様」

 大きく歩幅をとって歩いてきたツネサダは、震える女中の肩を叩いた。女中の肩がびくんと震える。

「君はいいから。私はこのお客様に用があるんだ。少し抜けていてくれるか」

 女中は言われるがまま、小走りで去った。一瞬だけこちらを振り向いた時に、目に涙を浮かべていたのが見えた。  女中を退けさせたツネサダは私の前に立って何時ものように話した。私も本心では女中に続いて逃げたかった。しかしそれは恐らく今許されることはない、と思った。

「すまない。君をこうしてしばらく住まわせていたのも、実は君の仕事場との契約だったんだよ」 「契約?」

 急に自分の仕事の話が出てきたために、私は聞き返してしまった。ツネサダは謝罪の意とは真反対の表情を浮かべ反応を返した。硝子玉、そんな印象を持っていた瞳は既にそれとは違うものに見えた。何も考えていない、獣の目だ。

「君は仕事のためにここに来たみたいだけど、実際にやってもらうことは君の仕事とは少し違った。本当はここで暮らせばいい。それだけだ」

 その言葉の意味はまだ、上手く理解出来なかった。  ツネサダはふと、ナイフを取り出した。一瞬身を引いたが、ツネサダが持っていたのは殺傷能力などまるでない、食事に使うナイフだった。ツネサダは笑う。

「驚かせてしまったね。でも別にこれで何をしようというわけじゃない」

「君が好きなもの。それも、ここに来てから君が初めて好きになった『食べ物』を、君は気に入ったかね」

 初めて食べた食べ物と聞いて、すぐに思い浮かんだのはあの肉だった。はっとして思わず表情が緩んだようで、ツネサダはさらに口角を上げた。硝子の目は笑っていない。 足音がこちらへ近づいてくる。

「あれについては詳しいことは何も言わなかったが、言ってなかったことがひとつある。好きになる人はなかなかいないんだ。中には食わず嫌いをするものもいる。そういうお客様に対して別のおもてなしをするのが私の仕事であり、趣味でね。自分から外へ出向くことも少なくはない。でも、君があの肉をひどく気に入っているものだからね。気が変わったんだよ」

 ツネサダはナイフを私の顔の前に出しながら、こちらの目を覗き込むようにどんどん近づいた。  足音は速くなっていく。

「思う存分、食べてみたいとは思わないかい。ちょうどいいのがここにいるじゃないか。生きたままで——」

 足音が止まった。  そこでツネサダは目を大きく見開いて黙った。その直後、口から、噴出すように血を吐いた。わずかにこちらの顔にかかる。

 彼の後ろに誰かが立っているのが見える。息を切らした女中の姿だった。

 何が起きたかを判断するのに少し時間がかかった。彼女はきっと、あの時包丁を持っていた。きっと料理場から持ってきたものだろう。  女中は、大きく息を吸った。その音は悲鳴のようにも聞こえた。老いた背中に、振り返った瞬間見えた腹に、何度も、何度も包丁をたどたどしい動きで突き刺しては抜くので、ツネサダは自分の血で口元と胸元を血塗れにしていた。伸ばしっぱなしにしていたあの長い髭も、血の色に染まっていった。彼は痛みを堪えるような目で天井を睨んで膝をついた。女中はといえば、驚き怯えた顔のままツネサダを睨んでいた。

「旦那様、旦那様。貴方に、貴方にだけは」

 彼女の言葉は途切れ途切れになって聞き取ることも出来なかった。  最後に彼女によって貫かれたのはツネサダの左手であった。許しを乞うために伸ばした手が振り下ろした包丁に当たったのだ。手のひらから手首の脈までを一気に裂いたのか、血が滝のように流れ落ちるのが見えた。  切り裂かれた布が散るように、はらり、はらりと身体が崩れ落ち、頭だけが横を向いたうつ伏せになる。ツネサダの唇だけが何かを伝えようと動いていたのをよく覚えている。声のないまま、『イ』の口が作られ、そこからは動かす体力も尽きたようだった。そして口を半開きに、目は大きく開いたまま痛みに耐えかね白く剥き、動かなくなった。

 背中を見せたスーツの老紳士を見ながら、私はなぜか、女中に包丁を渡すように命じた。受け取り、両手に包丁の柄をしっかり包ませて、そのまま振り下ろした。もう動かなくなった老人の身体から赤い飛沫が上がった。彼の身体は一瞬跳ね上がったように見え少し不気味だった。包丁は刺したまま、手を離す。女中は呼吸を整えることに集中していた。私は赤く赤く染まり続ける女中の服を見ていた。ツネサダと名乗っていた老人は、床に伏せたままでもう息をしていない。

 後ろから、風が吹いていることに気がついた。赤い木の扉の方からである。近づくと、確かに風が小さく髪を揺らす。ドアノブを試しに触って、振り向いてみた。女中は血塗れのままこちらを見て、何も言わなかった。

 赤い絨毯。長いテーブル。庭、奇妙な建物たち。この屋敷にはもう咎める人は居ない。私は自由だ。  目の前にある扉のドアノブを力強く掴み、そのまま体重を掛けていった。

 夕暮れに沈む外だった。

 骨があった。  骨や、骨や、骨、大きな骨、小さな骨、頭の骨、あばら、背骨、わからない骨、いびつな骨。

 それらが山のように転がっている。  奥に、焼却炉がある。隣にはボロ切れのような大きな布が落ちている。  腐臭と焦げの臭いが混じった鼻の奥を突くかのような空気がそこかしこに広がり、自分の後ろにまで一気に流れ込んできた。

 扉に手をかけたままで振り向いた。女中が怪物を見るような目で扉の向こうを見つめ、涙と涎とを垂れ流している。  動かなくなった老人の手首や背中の傷から、黄色い脂肪と赤い肉が見える。ここに来てから見慣れたものに、それはとてもよく似ていた。『ここで暮らせばいい』。その言葉が少しずつ、少しずつ、私へ語りかけては意味を脳へ染み込ませていった。

 夕暮れ時を告げる鐘が響く。  私の右手はいつの間にか、彼が持っていたあのナイフを拾い上げていた。  そのまま背中の傷に這わせていく——。

 そこからの事はよく覚えていないが、このあと女中と二人で屋敷を片付けていったのは記憶に刻まれている。  主の居ない屋敷ほど虚しいものもないだろうと考えて、私はこの家にまだ住んでいるのである。  内装は殆ど変わっていないが、料理人は初めの方に雇ってみたくらいでそれきりである。絵は遠く離れたコレクターに売りさばいてしまったが、何枚かはまだ残っていて、別のところに飾っている。  この家に暮らしてから、私は新たに仕事を始めた。おかげで、今ではこの街は昔のような活気を取り戻している。人も戻ってきた。生活も女中——ではなく私の妻が私のことを支えてくれる。毎日のように掃除を一緒にして、一緒に料理を作り、一緒に眠っている。料理の趣味は初めは合わなかったが、彼女のほうが私の料理を好きになってくれた。人間、分かりあおうと思えば、分かり合えるものだよ。

 人に恵まれ、美味しいものにも恵まれる。最高の人生だ。

 そういえば、今この文を読んでくれている君の元には黒色に白い円が並べられた本があるだろう。それは私からのプレゼントだから、どうぞ受け取って欲しい。 私が話をした目的はこれだけではない。ここまで話を聞いてくれた君を私の屋敷に招待しよう、というわけである。

 招待する、と言っても、ここは君の住む所からはとても遠いし、分かりづらい場所にある。せっかくの機会なのでいっそ、君の住んでいる所へ迎えに行こうと思っている。

 もちろん屋敷に着いたら最高のもてなしで迎えよう。私の妻も君に会えることを喜ぶことだろう。

 朝から晩まで、食事を囲んで、一緒に笑おう。

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