記録_献血
- 三時 伊藤
- 2018年10月16日
- 読了時間: 3分
瀉血。しゃけつ。昔々に行われていた治療法の一つ。現代ではサブカルの世界でリスカに並ぶ『趣味』として現在も存在し続けている。 風邪でも熱でも何でも瀉血すれば治るというのは流石に現代では難しいだろう。ただ血を流し身体をリフレッシュさせるという点では一理あると思っている。残念なことに私自身も女性として生まれてきてしまったからには月に一度血を流さざるを得ない週があるが、壮絶な痛みを伴うし、寧ろ流している最中の身体の不調が絶えないのでそれを考えたら瀉血のが少しばかりはマシではないかとたまに思う。 さて、瀉血は私の趣味ではないが、血は結構好きだ。そして定期的に血を身体の外に出せる方法が一つだけある。それも合法的に、かつ血を無駄にしない画期的な方法。 お察しだろう。献血である。 自ら血を流すことで感謝されるのは、よくよく考えたら面白い。ちなみに聞いた話ではあるが、鉄分が過剰であると苛立ったり体調不良を起こすこともあるそうである(個人差はあるが)。私はあまり貧血を起こさないタイプの為恐らく血を出すことでリフレッシュを図れるタイプの人種なのだろう。時間がある場合は行くことにしている。 暖かいココアやスープを飲み、身体を温めながら待つ。血液検査はいたって正常で、健康的である身体を確認する。 これから自分の身体の中で作った血を誰かに捧げるのだ。 先程、血を出すことでリフレッシュを図る、といったようなことを言ったが私が献血を受けるのにはやはり目的はいくつかあって、生きていることを確認するには一番手っ取り早く面白いからということ、そして自分の血が誰かに流れていることを想像するとなんとなく嬉しいからである。私は私の遺伝子を残したいとは思わない。それでも生きていた証をどこかに残しておきたいとは思うから、定期的に自分の血を捧ぐ。 岩井俊二監督の作品である『ヴァンパイア』、その中の『血は命そのもの』というセリフが好きでたまらない。『Love Letter』という映画に心酔してから岩井作品を漁りに漁った。そのうちの一つがヘマトフィリアや自殺幇助についてをテーマにしたこの作品で、私は『Love Letter』同様この作品を溺愛している。血を流す、ということは、命を流すのと同じこと。 椅子に腰掛けるよう言われ、暖かい毛布を掛けられる。左腕を差し出すと消毒液が塗られ、一言かけられたあとに準備が整う。 先程とは違う太い針が静脈に刺さって、刺された部分から肩までが重く、しかし一瞬の痛みに浸かる。赤い色がどんどん自分の身体から出ていく。痛みは慣れて感覚になり、不思議と心地良くなっていく。部屋にはテレビも付いているのだが、私はずっと血を眺めていた。チューブの中に注ぎ込まれ、一部が小さなパウチに、そして機械の中の大きなパウチに1ml、また1ml、ゆっくりと溜まっていく。血を眺めている人は珍しいのか分からないが、看護師の人まで何故か私を見つめていた。 200mlの私の血液がこのパウチの中に含まれ、誰かの身体の中に入る。この世界にきっと、私の身体の一部を使う人がいる。それはとても神秘的で、出会いもしない自分を受け継ぐだろう人の為に、血を流す。私が仮にこの後死んだとしても、誰かが私の血を流していることが嬉しい。私の一部を使い、誰かが生きていくことが嬉しく思えた。 献血が終わり、チューブを特殊な器具で途中から切り離す。私の腕の上に残ったチューブの中に注ぎ込まれた血液は、まだ温かさを保っていた。直接触らせてもらうと、そのものが生き物であるかのように温かい。血は命そのもの。そんな台詞が反芻する。 帰ってから浴びたシャワーに痛覚はなかった。傷口がすぐに塞がってしまったから。剥がれてしまった両腕の絆創膏が、少し虚しかった。
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