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靴磨きの青年

街中でベンチに座ってブログの記事を書いていたら、靴磨きをしているという青年に声を掛けられた。

話を聞くとその青年は19歳で、こうして街に居る人達の靴を磨かせて貰いながら稼いでいるという。

靴を磨くから夢を聞いて欲しいという彼の言葉に私は文字で『是非』と答えた。彼はブギーボードに書かれた文字にか、もしくはブギーボードそれ自体にか少しだけ驚いて、ありがとうございますと言った。

彼の夢は両親の為に25歳までにお金を貯め、家を建ててあげることだという。そして初めのうちは勝手がなかなか分からなかった靴磨きも、今や職人の様になったと嬉しそうに話していた。

私の人生の中で靴磨きなんて初めてだった。こんなに人通りの多い街の中だが、なんだかそんなの物語のようだと、代わりに渡されたサンダルと、靴紐がボロボロになった靴を見て思う。確か靴磨きでお金を稼ぐ少年が出てくる話もあった気がする。チョコレート工場の秘密だったか。

彼の話す夢を聞くうち、夢はありますかと訊かれた。ここは何か面白いことを答えようとしたが、残念ながら特に思いつかなかった。面白くしようとはしなくても、真面目に今は夢が思いつかない。唯一あるとしたら声が出ることだったので『歌えるようになること』と答えた。声が出ないとお金を稼ぐことも出来なければ病院に行く以外は殆ど何も出来ない。まともな職に就くのも難しいとなれば親に申し訳ないので、本当に今はそれくらいしか思いつかなかった。なんで声が出なくなったか、という質問には『呪い』と答えた。私にも何故かは分からないからと、付け加えて話した。

何人もの医者に自分の状態を説明したが、決まって必ず理由を訊かれた。当たり前のことながら明確に答えることは私には出来なかった。ここまで分からなければ呪いといっても致し方ないはずだと思った。

この状態に陥るきっかけは必ずあったはずだ。眠り姫が魔女のかけた呪いで糸車のつむに刺されて眠ったように、病にかかるにも呪われるにも、それ相応のきっかけと理由がある。もしかしたらブギーボードを手にした事で無意識に話せなくてもいいと思ってしまっていたのかもしれないし、ありきたりだが誰かに言われた言葉が引き金になっている可能性だってあるかもしれなかった。ちなみに首を絞められたり、黙れと言われる事で声を失う人も中にはいるらしい。

先日行った病院で受けた声帯の検査では、特に身体に異常はないと言われた。大きな病院に行くことを勧められ紹介状を書いてもらった。

今は受付で渡された緑色の大きな封筒が、良い魔法使いのいる道に行くたった一つの頼りだ。治らないことにはこれ以上進むことも戻ることも出来ないのだから。

そういえば3日前くらいから、寝起きに自分が喋っている声が僅かに聞こえるようになった。流暢に話している自分の声を、話せない私が聞いている。夢でも見ているのかもしれないが、それにしては連続で、同じような内容だった。何を話しているかまでは分からないけれど、早口だったりするのは私と同じだ。誰かが自分の声を使っているとも思えるようになった。本当に声を奪われたと、純粋にそう思えたらどんなに面白いだろうか。返せ返せと追いかけっこでも始まるのだろうか。

条件を満たすと話せるようになると前の記事に書いていたが、あの記事を書いた日からそれを満たしても声が出なくなってしまった。時々眠りから覚めると声が出ていることもあるが、すぐに消えてしまうようになった。その時に話すことなんて、誰も居ないから何もない。夢の中では話せるのに。

色々考えていたが目の前で真っ黒の合皮が磨かれる様をついまじまじと見てしまう。薄手の布に黒いワックスのようなもの、靴屋で時々見るブラシ。いつもは目に見えてボロボロな自分の履いていた靴はどんどん綺麗になっていく。これがまた良い値段の革靴ならばもっと綺麗になるんだろう。そしてそんな綺麗な革靴を履く人たちにこの人は、自ら声を掛けその手で一生懸命靴を磨くのだ。スニーカーやサンダル、パンプスばかりのこの街で。私なんて二千円と少しの靴だけれど、一瞬でもそんな人達のうちの一人と思われたと思うと、それはそれは嬉しかった。

そのうち靴は磨き終わり、青年は道具をしまい始める。

紙のお金を二枚渡してブギーボードでお礼を言った。何故かまた驚かれたがこれは彼の技術と夢の分を考えたらむしろ少ないくらいだ。私はただのしがない学生で、しかも今は働けない身分。これくらいしか払えないが喜んでくれたのが嬉しかった。

握手をすると靴磨きの青年は、

「いつか一緒に歌いましょう」

なんてことを言うものだから思わず笑ってしまった。そうだった。私はさっき、歌えるようになりたいと言ったのだ。

握手の手を離したら青年はさっと人混みに消えてどこに行ったかも分からなくなってしまった。お金を渡した後にSNSのアカウントを教えてもらったので彼は確かに存在するのだけれど、もしかしたらお伽話やファンタジーの世界から出てきた青年なのかもしれない。

いつか誰かから、お前は役から降りられなくなった役者だと、言われたこともあった。とてもショックだった。姫やヒロインを演じられる程では到底ないが、残念ながら自分でもそうだと思う。

でもこんなに不思議なこと続きの毎日なのだから、少しくらい物語のような出来事があってもこうして、例え主観的であっても話になるのは嬉しい。

乾いた咳の出る喉に、僅かにポカリスエットを流してベンチを後にする。このビルばかりの都会でも、お伽の国はどこかにあるのだろう。もしもそうなら、私の声で流暢に話すカエルが、どこかの草むらに隠れていたりするのかもしれない。


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